2009/04
土木インフラと古市公威君川 治


東大構内の古市公威像

 古市公威は姫路藩の江戸中屋敷で1854年に生まれた。幼少のころ郷里姫路に移り藩校好古堂にて漢学や国学を学び、再び江戸に出て上屋敷学問所で学ぶ間に明治維新となる。父が学問に理解があり、開成所や大学南校で歴史・地理・物理・数学・語学(フランス語)を学んだ。その後、官費留学生に選抜されてフランスに留学し、民間技術者を養成するエコール・サントラルで土木技術を専攻した。エコール・ポリテクニクは技術官僚を育成する専門学校であったが、修養年限が5年であり、3年のエコール・サントラルを選んだ。ここを卒業する時は41人中2番の優秀な成績であった。その後パリ大学で政治経済を1年学んで1880年に帰国し、内務省土木局に出仕した。1986年には東京大学工科大学学長兼内務省土木局技師を拝命した。
 景気が悪くなると政府は刺激策として公共投資を増額する。高速道路や鉄道など建設・土木工事に重点を置いた社会資本整備に注力する。社会インフラは時代とともに変化しており、現在では携帯電話網やインターネット網などの通信ネットワークが必須の社会インフラである。
 我が国の高速道路は1965年に開通した名神高速が最初であり、現在は北海道から九州南端まで全国の高速道路網が完成している。しかしながら一般の道路は諸外国に比べて貧弱である。日本の道路は何故近代化が遅れたのであろうか?日本の土木技術界を代表する古市公威が道路建設をどのように進めたか、明治の国土開発を眺めてみる。
 明治初頭の国づくりは大久保利通内務卿率いる内務省が河川・道路・港湾の土木事業を所管し、鉄道は工部省の所管であった。大久保利通の国土開発構想は、紡績などの輸出品生産の多い東日本の運輸ネットワーク作りであり、沿岸海運と河川海運であった。従って河川改修と港湾築港であり、阿武隈川と阿賀野川を結び、利根川と信濃川を結んで太平洋から日本海へと舟運をつくる構想であった。その時に計画された7大プロジェクトは全て港湾、運河、河川改修であった。
 当時の土木予算を見ると下記のようになっている。
         河川    鉄道    道路   港湾  
 1880年 |  42% |  29% |  27% |  2% 
 1890年 |  27% |  54% |  18% |  2% 
 1930年 |  15% |  40% |  37% |  8%  


 港湾予算が少ないように見えるが、港湾はスポットで他はネットワークであるから、道路予算が貧弱であったと云える。
 明治20年代の国づくりは鉄道事業と河川舟運・海運に重きを置き、近代港湾事業はオランダ人技師の指導を受けた。
 ここに古市がヨーロッパの技術を背負って内務省土木局に登場する。古市は土木技術を深く学んだと云うよりも、工学全般の知識を広く習得した。土木技術面における古市の役割は西欧近代技術の導入と、その消化を推進することであった。
 土木学会編集の「古市公威とその時代」を見ると、古市公威は我が国工学界のトップ(工科大学学長)であり、技術界のトップ(内務省土木局長、技監)との評価がある反面、藩閥政治の巨魁山県有朋の子飼であり、政治権力を利用する人物であったとの評価もある。政治との調和を図り、国づくりの理念について明確に語ったものは殆どなく、道路建設には関心が薄かった。
 彼の時代には河川の整備、橋梁の建設、港湾の建設・改修に力を入れた。彼の功績は、1896年に河川法の制定、1897年に砂防法の制定、大阪築港・横浜築港・東京築港などである。1898年に逓信次官兼鉄道局長心得となり、鉄道作業局長官、京釜鉄道総裁となる。1915年には土木学会初代会長になる。官・学の中心にある人物がどのような道路行政を実施したかに注目したが、全く裏切られる結果であった。
 彼自身の自己評価も「余は学者に非ず、実業家に非ず、技術者に非ず、行政家に非ず、色彩極めて分明ならざる鵺(ぬえ)的人間と称すべきか」と言っている。さらに「自分は社会から与えられた課題をこなしていった何でも屋であり、結局何も残さなかった」と総括しており、1888年に工学博士となっているが、学者としても論文は一つもない。
 国土政策機構が編纂した「国土を創った土木技術者たち」(鹿島出版会)の道路に関する記述を調べてみる。
 江戸時代、徒歩交通の頃はオランダ商館長が長崎から江戸へ参府する街道の整備を称賛している。しかし明治政府は鉄道建設に重点を置き、陸上交通の道路整備を軽視した。道路の冬の時代が始まった。1896年(明治29)に上程された公共道路法案は廃案となり、放置された。
 自動車の利用は1900年前後より始まり、1912年には約600台、1919年(大正8年)には約7000台となる。陸上交通はやがて自動車交通の時代を迎えるが、それ以前も荷車、馬車・人力車もあったのであるから、要は道路に対する先見性のある人物が少なかったのである。このような中で道路建設に尽力したのが牧彦七であり、近代道路の先覚者と言われている。
 牧彦七は1873年に大分市に生まれ、熊本の第5高等学校を卒業し、1898年に東京帝国大学工科大学土木科を卒業した。最初の赴任先は台湾総督府で河川護岸を担当、その後、埼玉県土木課長、秋田県土木課長を経て1913年に勉学のため1年間休職。この休職の間にフランス語の勉強と博士論文を執筆して工学博士の学位を取得した。内務省土木局技師に復職し、それ以後は道路技術の専門家としての道を歩む。
 1919年に漸く道路法を成立させ、この年に道路の技術基準である「道路構造令」と「街路構造令」を制定する技術面の責任者であった。1921年には「道路改良会」を組織して理事となり、1922年には土木試験所の初代所長に就任し、道路に関する研究を続けている。
 1922年より東京帝国大学工学部講師となって道路、街路、都市計画の講義をし、関東大震災後は東京市土木局長として現場を指揮した。
 戦後、建設省がアメリカから招いた調査団長は「日本の道路は信じがたいほど悪い」と酷評し、大幅な道路予算増額を勧告した。
 道路は生活の重要なインフラであり、その必要度は人々の生活様式により変化してくる。田中角栄の列島改造論や道路族などにより、道路は政治的産物となる要素大であり、高速道路は良く整備されているが一般道路は危険な個所も多く、相変わらず貧弱と言えよう。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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